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ホリィ(新人)のことを語る

元亀2年の本願寺挙兵の経緯と大坂・野田・福島の疑問に答えてくれそうな論文がありました。

仁木宏『二条宴乗記』 に見える大坂石山寺内町とその周辺
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DB00000843.pdf

信長が本当に本願寺に立ち退きを求めたのかどうかは重要だと思うのですが、見解が分かれているところのようです。神田氏は否定的に見られてましたが、仁木氏はそうではないようです。

こちらも各地の寺内町形成の経緯を詳しく見ていて参考になりそう。

中世末の畿内における寺内町の成立と変遷に関する研究
http://www.jusoken.or.jp/pdf_paper/1998/9707-0.pdf

野田(円満寺、極楽寺)についても項目を立てて解説されています。
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野田の地は淀川河口の中洲が発達したもので,海老洲と福島に挟まれた小島が次第に地続きになったと考えられている。元禄9年(1696)「大坂大絵図」では,天満から野田に至る南中島は完全に地続きで,淀川・中津川が大阪湾に注ぐ河口の中間に位置する高台が野田である。
石山合戦頃の野田と福島は区別は明瞭ではないが,両地にまたがる形で堀や城壁を巡らし塀や櫓を建て連ねた8千人の将兵が籠城しうる城構えをもったものと思われる。
今日野田城の明確な遺構は残存しないが,圓満寺・極楽寺を中心とする玉川の一体は,周囲より一段地盤が高く水路がまわりを取り巻いている。
「明治19年大阪実測図」文39〕によると,小字名には「字北ノ口」「字城之内」「字奥」「字堤」「字大北」「字大南」「字草場」「字村東」「字弓場」が残る。また,現在道になっているが明治の段階では水路であった部分が多く,集落の周辺から内部へ水路が幾筋も巡らされた複雑な構成がうかがえる。
現在は集落南端を地方道大阪臨海線が横切り,一部分断されているが,主な町割は「実測図」とほぼ一致する。集落内の道路は食い違いになっているところが多く,防御的形態を残す。圓満寺・極楽寺とも「村東」「奥」に位置する。
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