永禄から元亀年間の信長が掲げた「天下布武」は幕府再興と同義で他国侵略の意図はなかったとして、色々なことを再考しています。
まず元亀元年4月に行った朝倉攻めですが、若狭武田氏の重臣・武藤友益が悪逆を企てたとして討伐の上意を受け、幕府軍として総勢3万の軍勢で若狭へ出兵した後、突然矛先を転じて朝倉氏の重要拠点の一つ敦賀に侵攻したというものです。
通説では朝倉が上洛の要請を無視したことが理由とされていますが、谷口克広氏『信長と将軍義昭』によれば、前年8月の朝山日乗の書状から信長が以前から越前を目標と考えていたことや、信長からの上洛の触書にも朝倉の名が記されていないこともあり、どうも信長は将軍の発した武藤討伐に便乗し、朝倉に言いがかりをつけて急襲する腹積もりだったとのこと。
しかし、義昭は一乗谷の朝倉氏のもとで元服してますし、二年もの間畿内の争乱から離れて無事に過ごせたのは朝倉の援助があればこそで、討伐を受ける道理はありません。
谷口克広氏の説では信長は己の野心のために将軍の権威を利用する立場としており特に無理はないのですが、天下の面目に配慮する信長としては少々乱暴なやり方に見えます。
これだけを見ても、信長にそこまでの行儀の良さを認めるのは無理があると思っていたところですが、先日たまたま流し読んだ『信長戦記』というマンガには、武藤の叛逆自体が朝倉義景と浅井長政が組んで仕掛けた謀略で、信長を誘い込むための罠だったという筋書きが描かれていて、なかなか面白かったです。