この質問、たくさん聞きたいことを欲張りに凝縮させてたんです。
・長慶死後の三好政権が将軍義輝を殺害した理由
・長慶が健在であれば、義維や義栄の出番はあったのか
・他の大名(たとえば毛利氏や武田氏)が長慶を「天下人」として認めてこれに従う可能性はあったのか
・逆に信長のように足利家再興の大義を掲げて上洛する大名が出てきただろうか
天野先生の言う通り、すでに足利家の権威が地に落ちていたとすると、言わば成り上がり大名の三好氏による将軍殺害という大事件があったからこそ、幕府再興の大義名分が時宜を得ることになったと思うのです。
三好長慶が生きていれば性急に将軍義輝を殺害する必要はないだろうし、義輝の性格から考えると、後に義昭が信長と衝突した時と同様に、反三好方の大名に上洛を呼びかけて挙兵するか、畿内勢力の手が及ばない紀伊辺りに逃亡を図ってたんじゃないかなと。
他の大名との関係はまだよく把握できていませんが、すでに地方で独自の体制を築いていた武田氏や北条氏などは、上杉氏への対抗上、三好政権とはうまくやっていけた気がします。
特に武田とは、常に畿内の覇者と友好関係を結んでいた本願寺との姻戚関係があり、永禄7年まで京都に在住していたと思われる武田信虎も、すでに子息の信顕を長慶に仕えさせていたとの伝承もあります。
ただし、長慶の氏綱方への離反以来ずっと外交上敵対していた毛利元就とは、その周辺勢力との関係から考えても、衝突していた可能性が高いんじゃないかなと。
鎌倉府の再興を大義として関東に侵攻し、後の義昭からも最も頼りにされていたと思われる上杉謙信も同様でしょう。
うまく幕府の権威を利用できた信長と比べると、全国統一は険しかったでしょうね…そもそも、そこまでの統一政権が必要とされていたかどうか。
まあ、全部妄想ですが(笑)