天正8年5月には信長の方から毛利へ和睦を打診していて、これを受けた恵瓊は厳島神社の棚守氏に宛てた書状で「第一日本に当家一味に候へば、太平になり行く事に候条、天下持たれ候上にての分別には尤もに候」と賛意を示すとともに、将軍義昭のことは信長側の使者の言葉を引き「西国の公方にさせられ候て然るべき由に候」と記しているそうで、交渉は不首尾に終わったものの、この時点で毛利方、少なくとも恵瓊自身には将軍の所在に関係なく信長を天下人として尊重する意志があったことが窺えます。
また、天正8年3月に北条氏の服属を認め、天正10年3月に朝廷工作により「東夷追伐」の名分を得て武田氏を滅ぼした後は、関東に対して「惣無事令」を発しているとのこと。(柴裕之「織田政権の関東仕置-滝川一益の政治的役割を通じて」)
鎌倉公方と関東管領については触れられていないのですが、室町幕府が成し得なかった関東平定の悲願を達成した功績を認め、幕府に代わる新たな武家政権と評価したからこそ、朝廷は信長に将軍推任の意向を示したのでしょう。
畿内を統治し武家を代表して天皇を庇護する「天下人」信長は、毛利や北条のように地方に割拠する大名とも共存する政権を志向していたという神田氏の評価は、事ある毎「天下の面目」に気を配った信長に相応しいと感じます。
それはただの建前だろうと考えるのは簡単ですが、昨年は信長の「革新性」に否定的な論調の本がたくさん出ているのは、そういう見方こそ先入観に依るものではないかと、疑うべき時期に来ているということでしょう。
本能寺の変についても、四国統治を巡る秀吉-三好派と明智-長宗我部派という政権内の対立を要因とする見方が強まっていますが、神田氏が提示する信長政権の姿とその限界を象徴しているようでもあり、面白いです。