http://h.hatena.ne.jp/k-holy/315643027300483683
この話、ちょうど手元の太田浩司氏の『浅井長政と姉川合戦』で触れられていました。
小和田氏は大河ドラマ『秀吉』の時に、現地での地名の読みから「アザイ」説を主張したとのこと。
一方で宮島敬一氏は平安期成立の『和名類聚抄』を根拠に「アサイ」説を主張していて、近世に流布した『節用集』から「あざい」表記が見られることから、近世以降に濁って読まれるようになったとしています。
同時代の史料では鷲尾隆康の日記『二水記』には大永5年の六角定頼による小谷城攻めに関して「中書被官アサイ城、此間六角少弼攻之」とあるそうです。
また『南部文書』にある徳勝寺(浅井氏菩提寺)の慶長16年の記録では亮政と久政を「あさい」長政を「あざい」と表記しているものの、これは原本ではなく明治期に流出した写しと見られるそうです。そして、現在同寺に残っている明治期に製作された写しではいずれも「あさい」表記だという。
どっちでもいいんですが、この話から考えると近世以降、地名としては「アザイ」と濁って読まれるようになったものの、人名はずっと「アサイ」と呼んでたんじゃないかなーと思います。
ちなみに織田なんかはその逆で、今の地名は「オタ」で人名は「オダ」だったりします。地名は長い歴史の中で読みだけではなく漢字の表記も変わることが多いし、現在の地名を根拠とするのは筋が悪いんじゃないかって思うわけです。
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