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ホリィ(新人)のことを語る

ここ岡山は、河内キリシタンの拠点としても知られています。
永禄6年、飯盛山城を畿内の政庁としていた三好長慶は城下での布教を許可、これに反対する松永久秀は結城忠正、清原枝賢、高山飛騨守(右近の父)らを派遣して修道士ロレンソに宗論を挑ませますが、彼らは逆に感化されてしまい、結城忠正は息子のアンタン左衛門尉と共にいち早く洗礼を受けることになりました。
翌年には飯盛山城において三好麾下の河内の城主たちが洗礼を受けますが、忠正の甥にあたるジョルジ弥平次は特に熱心な信者となります。
天正年間、ジョルジ弥平次は甥にあたる岡山城主の結城ジョアンと共に織田麾下に属しますが、おそらく飯盛山城の落城に伴って城は破却されたようです。ジョルジ弥平次は天正5年、その跡地に新たな教会と十字架を建て、数軒の家を立ち退かせて教会への直線道路を築きました。フロイスは書簡の中で、岡山の住民は一人残らずキリシタンになったと伝えています。
しかし秀吉の時代、天正11年にこの地は異教徒である秀吉の家臣に与えられ、結城ジョアンは翌年の小牧・長久手の戦いで討死して断絶しました。教会はその破壊を恐れた高山右近の尽力によって大坂城下に移築されたそうです。


鳥居から神社まで東西に参道が残っていますが、『飯盛山城と三好長慶』収録の福島克彦氏「河内の寺内町と都市論」にはここがその直線路の跡かも?とありました。また、この空間には今は自治会館や消防団の施設が建っています。


周辺では宅地化が進み岡山城、教会とも跡形もありませんが、現代に至っても地域の祭祀と集会の場としての役割は変わらず続いているのかもしれません。