そして、大内堂に面した県道を真っ直ぐ行った突き当たりにあるのが、こちらの香西宇佐八幡宮。
ここは天正年間に香西佳清が長宗我部氏の侵攻に備えて築いたという藤尾城跡でもあります。
大内堂の向かいに当たる南方には作山城、北方には芝山城を支城としていたとのこと。
香西元政の子の元載(宗心)は、阿波三好氏と浦上氏・宇喜多氏、大友氏や尼子残党も加えた反毛利連合による備前児島合戦にも参加しましたが、本太城を攻略中に討死しています。
後継者の佳清は阿波三好氏の方針転換と畿内情勢の変化を受け、天正2年に三好方から離反しました。『南海治乱記』によると、元亀2年に安富氏と姻戚を結んだ篠原長房が寒川氏の領地を召し上げたことなどを遺憾として、天霧城主の香川氏との連判で十河存保に訴えたものの、存保の進言は長治には届かなかったためとされています。
香西氏はこの時、詰城の勝賀山城に籠もって三好方を撃退しましたが、その後本拠地を移してきたのが、この藤尾城だそうです。
勝賀山城は山頂を大規模に削平して築かれ、喰違虎口などの技巧も凝らした堅城だったようですが、どういう理由で城を移ったんでしょうね。支城との連携が悪かった?港が遠かったため?