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ホリィ(新人)のことを語る

あと明応8年末の義尹の山口下向に扈従していた面々の中に赤松播磨守勝範が挙げられているんですが、大門先生の『備前浦上氏』によると永正5年9月にこの赤松播磨守が赤松家督を望んで謀叛し、義村に討たれたとのこと。
赤松播磨守の謀叛は時期的に考えて、6月~7月にかけての義尹の将軍復帰と幕府の新体制に連動して起きた事件としか思えないけど、対する義村も前年には義尹上洛を支持しているというのがよく分からない。実際、赤松が敵に回らなかったからこそ問題なく堺まで到着できたんだろうし。
足利義澄が亀王丸を播磨に下向させることになったのも、この辺の対応で赤松氏が新幕府と敵対した流れだったのかな。
Wikipediaの「洞松院」見たら、義村を後見する浦上則宗に対して明応8年に浦上村国らが赤松勝範を擁立して挙兵したのがいわゆる「東西取合」で、そこに別所則治が義村の成人まで洞松院に執政させるという案を出したとある。出典元が書かれてないいけど、事実だとするとこの時も勝範方が義尹派ってことになるのかも。則宗は当然義澄(政元)派だろうし。