『大内義興』一巡目読了。義興が(著者が?)義稙に対して冷淡過ぎるように感じましたが、義稙没後に肖像画を描かせた話もありますし、単にダメ主君扱いしてた訳ではないと思いたい…そこだけがちょっと引っ掛かりました。
まだ咀嚼しきれない大内氏よりも、むしろ赤松氏も含めた明応の政変の詳細を知りたいところで、素敵な資料を見つけました。
青山英夫 〈研究ノート〉「明応の政変」に関する覚書
http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/handle/123456789/10429
義材と当事者というべき畠山政長以外は概ね消極的だったようで、赤松が堺南庄、大内が堺北庄に布陣しているわけですが、他にも出陣当初は誉田城付近まで進出していた細川讃州(義春)・細川淡路(尚春)・武田(国信)が後方の住吉へと陣替えしていて、このグループは京都での政変勃発後、上原元秀率いる京兆家の軍勢と入れ替わるように京都へ帰還しています。
また住吉への陣替えと同時期に、敵方の越智家栄・古市播磨律師の元に伊勢氏から清晃擁立計画が伝えられていて、どうも初めから政元の計画通りに行動していたようです。(細川義春は義材に気に入られて偏諱を賜り、近江親征後の猿楽の宴にも参加していたんですが…)
洞松院の輿入れを歌ったあの落首「天人と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな」は、赤松政則が大内義興と共に堺に在陣していた状況のことだったんですが、その直後に敵の畠山総州方への通告があり、政変が決行されたという流れで、さらにその後、浦上則宗と別所則治が政元への御礼として上洛し、上原元秀・安富元家と共に河内へ戻っているようです。
ただ、赤松陣中では京兆家との連携に反対する赤松出羽守(有馬則秀)と別所方の間で騒動があったらしく、赤松が義材方に付いたとか、そのために大内と協同したという雑説の背景にはそういう不安定な状況が影響したのではとも。
正覚寺の本陣への攻撃前には再び浦上則宗が上洛して、先の江州攻めの戦功で義材から拝領した所領の安堵を政元に承認させており、政元からの返答が堺の赤松陣に伝えられた後、赤松勢は政長方の根来衆と交戦を開始(堺合戦)、斯波勢と京極勢もこれに呼応して正覚寺包囲網が布かれたとのことです。
赤松氏も大内氏も当初計画の全てを知らなかったものの、京都で代わりの将軍候補が立てられるに及び、戦局の鍵を握る赤松は政元方に付くための条件を交渉した一方、戦線離脱した安芸・石見勢を収容して兵庫に移っていた大内勢は最後まで蚊帳の外?そりゃ政弘も怒るわけです…。