義興の父の政弘はただのお人好しの坊ちゃんではなくて、結構やり手だったことが分かりました。
応仁・文明の乱では後始末の時期も含めて11年在京、その間に細川勝元がチョッカイ出して国元で起きた大内道頓の乱は、周防守護代の陶弘護が見事に治めたんですが、政弘は帰国後に吉見信頼を使って陶弘護を殺害させた疑惑があるようです。
信頼その場で内藤弘矩によって討たれたんですが、弘護殺害の凶器となった短刀が後に信頼の父に下賜されており、更に後年、今度は細川政元がチョッカイ出して、僧侶になっていた義興の兄高弘が謀叛した際、内藤弘矩はそれに加担したとして成敗されたとのこと。
細川京兆家は大友氏や重臣層を唆して、大内氏の一族に謀叛させるという手法を何度か繰り返してますが、味方を帰ると政弘の方でもそういう状況を利用して、義興への権力委譲に障害となりかねない重臣達の力を弱めることに成功したとも言えるようです。
陶氏の跡は弘護の三男興房が、内藤氏の跡は弘矩の弟の弘春が継いだ背景にはそういう事情があったわけです。陶弘護は20代で殺されてますし、結構ひどい話なんですけどね。
あと義興は京都で生まれて元服してるんですが、その頃は京兆家と大内、赤松の三家が婚姻関係を結ぶ話が進んでいたそうで、当時在京していた浦上則宗が蔭凉軒主と酒飲んだ時に「三家が結んだら天下無敵」みたいなことを漏らしていたそうな。則宗…