戎光祥出版の中世武士選書『大内義興』をチェックしたら、船岡山合戦について面白い話がありました。
澄元方と高国方の一大決戦的な扱いを受けるこの戦いですが、どうも事実はそうではなく、直接参加したのは当時澄元方の先鋒として京都入りを果たした細川政賢(尹賢の前の典厩家当主)だけで、鷹尾城攻略の原動力となった赤松軍は伊丹城で足止め食らっている状態、当の澄元も阿波に残留しているし、何より堺が大内方に押さえられていたので、当然阿波勢の参戦もなかったんじゃないかという話です。
堺では大内氏の水軍が健在で、摂津で負けた高国方の兵を収容していたそうで、それを放置して京都を攻めた政賢の失敗ではありますが、結果的に澄元は政賢を見捨てることになったみたいです。
(今谷明氏も『戦国三好一族』で三好之長が参戦しなかったのが澄元方の敗因ではと書かれてて根拠が分からなかったんですが、実際に阿波勢は動いておらず、摂津方面での敗戦も局地的なものだったということ)
船岡山合戦が注目されたのは、毛利氏の出世物語の一環として語られたためでしょう。
毛利氏が盟主になったという安芸国人一揆についても、無断で帰国した彼らが義興からの叱責を怖れて連合しただけじゃないの、という感じの話が書かれてました。実際には有効に機能しなかったと言われてきましたが、そもそも出発点がそういう事なら仕方ない話で…。とりあえず試験も終わったんで今度こそ買って読みます。
ホリィ(新人)のことを語る