ちなみに石庭で有名な大徳寺の龍源院は畠山義元、大友義長、大内義興らによる創建と伝わり、具体的な年次は文亀2年(1502)や永正元年(1504)といった説がWeb上に見られますが、この三者が共同している時期であれば義稙上洛後の永正5年(1508)以降、おそらく永正8年の船岡山合戦の後になるのではないかと思います。
Wikipedia情報によると大友義長(宗麟の祖父)は義稙の上洛に伴って大内義興との和睦を進め、後に義興の娘を嫡子の室に迎えたようです。
また、かつて通説では義興は尼子経久の侵攻を理由に永正15年(1518)に帰国したとされていましたが、実際の両者の衝突はそれよりも後の大永年間頃のようで、在京時代は幕府最大の有力者かつ西国の盟主としての役割を果たしていたのでしょうね。
10年間よく頑張ったと思いますが、義稙との関係はどうだったんでしょうか。義稙が義興の従三位上階に反対したというのは、家格秩序の問題なのか。
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