id:k-holy
ホリィ(新人)のことを語る

昨日は三宮に出たので再び『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』をチェック。将軍義稙と細川高国の対立に至る経緯として、将軍御成についての興味深い考察がありました。
義稙が大内義興の供奉により上洛を果たしたのが永正5年6月8日、そして将軍に復職したのが7月1日ですが、『後法成寺関白記』(後法成寺尚通公記)によると、その翌月となる8月11日、畠山尚順宿所の東福寺海蔵院において、尚順の主催で復帰後初めての将軍御成が行われたんですが、その際に御相伴衆として来席したはずの細川高国と大内義興の両者が義興と尚順の不仲が原因で退出したそうなのです。
御成は新幕府に名を連ねる諸侯の序列化を天下に示すという意味合いがあったようで、将軍は明応の政変以来長きに渡って自分を支援してくれ、畿内における澄元派の重鎮・赤沢長経を討った畠山尚順こそ第一の功労者と評価したことに対して、大内義興が反発、細川高国も義興に同調したという構図のようです。

この時期の高国はまだ土壇場で巧いこと振る舞っただけという印象ですが、義興の方は世間でも「筑紫之御所」「九州大樹」などと呼ばれていた通り、大内氏の庇護あってこその将軍復帰と見られていたわけで、その不満も尤もなことでしょう。
主君を置き去りにした二人も大概ひどいですが、船岡山合戦の論功行賞でも(義興の従三位上階、高国への御成の後とはいえ)能登守護・畠山義元が御成を受けるなど義稙による高国への対抗とも思える人事は散見され、両者の冷戦状態が伺えます。そういう背景で永正10年3月の甲賀出奔とその後の七ヶ条の要求に至ったんでしょう。
なお、永正15年3月には義稙側近の畠山順光(式部少輔)も御成を受けていて、御成の対象は原則的に在京大名か伊勢家に限られていた中で異例のことだったようです。