倉吉から鳥取市へ移動し、翌朝は「かろいち」オープンまでの間に吉川公園を訪れました。
何が吉川かというと…
ご存じ、吉川経家のお墓があるのです。
鳥取城は天正8年夏に秀吉の因幡侵攻を受けていったん降伏開城しましたが、その後山陰方面に戻った吉川元春は、長和田の合戦に勝利して南条氏を羽衣石城に押し込め、形勢が毛利方の有利に傾くと、因幡衆は城主の山名豊国を追放、翌天正9年2月には石見吉川氏の吉川経家が派遣されました。
因幡国内では前年に秀吉により多くの兵糧が押収され苅田を受け、その後も戦が続いたため、毛利方はもちろん織田方の諸城においても兵糧不足でしたが、秀吉の再侵攻の時期を天正9年7月と把握した経家は、鳥取城と八橋城を10月一杯まで守り抜くことができれば、織田方がどれだけ周辺の付城を落としたところで雪のため撤退せざるを得なくなるとの見通しから籠城策を取り、元春に兵糧の支援を求めました。
しかし、織田方の鳥取城包囲網の厳重さは毛利方の予測を上回り、陸路は鹿野城の亀井氏による妨害を受け、南条氏の羽衣石城は吉川軍の猛攻に耐え抜き、海上も細川藤孝麾下の松井康之率いる水軍に制圧されたため、あの「渇え殺し」の惨状となった次第です。
10月下旬に至り冬まで何とか持ちこたえたものの、城内にはすでに雪を待つ余力はなく、経家は自身の切腹と引き換えに城兵の助命を条件として降伏、その首は要求されていなかったにも関わらず「末代の名誉」と父と四人の子に遺書を認めた後、自刃しました。
昭和3年に改修された経家のお墓は、今も大切に手入れされているようです。