伯耆南条氏ゆかりの曹源寺には、南条元続の弟小鴨(南条)元清の内室の墓があります。
天文年間、尼子氏の侵攻を受けその傘下に降った南条国清(宗勝)は、郡山城攻囲戦での敗退後は大内方に付いたものの、その後の月山富田城攻めで再び敗退し、以後20年以上に渡って国外流浪の末、永禄5年にようやく毛利氏の支援の元で羽衣石城を回復しました。
国清の死後、天正7年に南条氏は毛利方を離反して織田方に付き秀吉の鳥取城攻略を支援、天正10年に毛利方の侵攻により再び羽衣石城を追われた後、翌天正11年に秀吉麾下の大名として再び羽衣石城に復帰しています。
元清は国清の次男で小鴨氏を継ぎ岩倉城主を務め、兄・南条元続の死後も一族の重鎮として甥の元忠を後見し、豊臣政権下では実質的に南条氏を主導していたようですが、南条氏は関ケ原合戦で西軍についたため再び城を失いました。
病にかかった妻はここ曹源寺で療養していましたが、慶長5年になくなったそうで、その告別の歌と伝わるのが上の石碑です。
なお『伯耆民談記』は元清は関ヶ原合戦後に美作に潜伏して亡くなったと伝えますが、Wikipediaには関ヶ原合戦で小西勢に属して戦い、加藤清正に仕えたとありますね。