「戦国遺文 三好氏編 2巻」を読んで、追記した妄想が大体ただの妄想だったことを確認できた感じ(笑)
5月26日梅仙軒霊超が河野左京大夫に宛てた永禄の変を報告する書状には「去年冬志野原堺津へ罷上、阿州公方御入洛調段」とありました。まじか。
あと、8月5日義俊が上杉弾正少弼に宛てた書状には「一乗院殿南都御座所儀、居御番候而、松永堅雖申付候、朝倉左衛門督令直談、種々廻調略、去月廿八日、至甲賀和田城被引退候」とあり。丹波で荻野直正が内藤宗勝を討ち取ったことにも触れていました。「一国平均ニ成申候」と。
ざっと読んで感じたのは、松永久秀が失脚するまで子の久通は特に連携なく別行動を取っていたんじゃないかということ。義継が久秀に味方した経緯は三人衆への不満の他はよく分からないけど、永禄10年2月28日に義継から松永方の椿井一郎と古市播磨に宛てた書状に「松少事対家大忠儀候条、依難見放、令一味候、此間粉骨之由感悦候、弥馳走可為神妙候」と。
ホリィ(新人)のことを語る