検索していて見つけた論文、2008年と少し古いですが、天野先生とは異なる見解で興味深い内容です。
田中信司『松永久秀と京都政局』(PDF)
http://www.agulin.aoyama.ac.jp/mmd/library01/BD81153381/Body/ab40153381.html
特に永禄元年末の将軍義輝復帰以後、松永久秀が他の三好被官とは異なり幕臣の一員として協調関係にあったという指摘です。
また、禁裏との関係においても、三好氏が永禄元年以前の三好政権期から引き続き禁裏とは疎遠だったことに比べて、松永久秀は永禄3年の御供衆就任以降、禁裏との交渉件数が格段に増えているそうです。
そして、こういった京都における幕臣としての活動が、「天下すなわち都の君主国においては、彼が絶対命令を下す以外何事も行われぬ」とのフロイスの久秀評を形成したと見られています。
久秀の腹心としては竹内秀勝だけでなく、当代一流の儒学者だった清原枝賢や奉公衆の結城進斎なども、幕府・公家勢力の人脈と見ることができますね。
久秀の働きに対して、義輝は娘を人質として預けるほど信頼関係を築いていたというところも要注目で、永禄の変への妄想が捗ります(笑)
ただ、あくまで三好氏権力の窓口としての働きと見るか、三好氏権力の意向とは無関係に幕臣・大名として独自の権力を築いていったと見るか。そこは断定されていません。