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ホリィ(新人)のことを語る

斎藤基速については、『戦国三好一族』や天野先生の長慶本でも触れてましたね。
畠山式部少輔は先代が将軍義稙の取次役を務めた側近だったようで、永正10年3月の甲賀への出奔に同行、永正17年2月には細川澄元から義稙に恭順の意を伝える書状を受け取り、澄元の死後、翌年3月の淡路への出奔にも同行しています。
当初は義維が義稙の養子になった経緯もよく分からずピンと来なかったんですが、義稙が高国の排除のため澄元との提携を望んだ結果と捉えることで分かってきた気がします。

義稙と澄元の提携を前提とすると、赤松義村と浦上村宗の対立とその後の義晴上洛も、単に村宗が下剋上達成のために幕府との繋がりを求めたというだけではなく、澄元を支援したい義村に対して、高国を支援したい洞松院&村宗という構図がより鮮明に感じられるようになりました。
『戦国三好一族』では越水城の攻囲戦で、赤松家の内訌のお陰で澄元は西から挟撃される心配がなかったとありましたが、義村は高国派の村宗を強引に排除しようとして失敗したため、澄元方に加勢できなかったというのが実情だと思います。越水城が開城となる前日、義村は播磨大山寺に澄元戦勝の祈祷を依頼しているそうです。
妄想ですが、義村の望み通りに事が運んでいれば、あるいは三好之長が等持寺表の合戦に敗れることはなかったかもしれませんし、そうなると擁立すべき将軍のいない高国方はもっと早く崩壊していたでしょうね。

浜口誠至氏の『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』からヒントを得て、『平島公方史料集』を読み進め、義稙から義栄に至る系譜が自分の中でようやく繋がりました。