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ホリィ(新人)のことを語る

「大樹帰洛行列」は人数三万余にも及び、大勢の見物人が集まったようです。

『後法成寺尚通公記』五月三日
> 大樹御歸洛也、供奉衆細川右馬頭、畠山次郎、同式部少輔、大館刑部大輔、一色兵部大輔、伊勢守以下十ニ三騎、奉公衆、御輿前二行、七八十人云々、板輿也、甲賀奉公衆種村刑部少輔父子以下御先ニ馬上也、畠山修理大夫ヌリ輿、騎馬四五騎也、次大樹、御後、細川安房入道塗輿、騎馬四五騎也、其後和泉守護彌九郎、次畠山尾州馬上、後騎十二騎也、次大内左京兆ヌリ輿、後騎十一ニ騎也、次細川右京兆ヌリ輿、後騎十二三騎也、人數三萬餘人計歟、見物衆如竹葦云々

当時の幕府の主要メンバーが読み取れます。馬上よりも塗輿に乗ってる方が偉いんでしょうか。大樹の前後と最後尾の2人。

先頭の細川右馬頭は細川尹賢。高国の従弟で野州家の分家出身ながら典厩家を継いでます。後年、香西元盛を讒言で殺させて柳本賢治ら丹波勢の離反を招いておきながら、ちゃっかり晴元方に寝返った人物。更に、氏綱と藤賢の父でもあります。

畠山次郎は尾州家の畠山稙長。高国との結び付きを強めて、高国の死後も旧高国党と結び、上洛を試みる尼子氏と連携することになります。

畠山式部少輔は三月十九日にも将軍の取次を務めている畠山順光。後の阿波への出奔にも同行した、義稙の忠実な側近。おそらく後年に足利義栄の側近を務めた畠山式部少輔入道安枕斎守肱の父と思われます。

馬上の畠山尾州が稙長の父尚順で、五月一日に「畠山尾張入道」と記された人物です。明応の政変で細川政元に陥れられて自刃した畠山政長の子で、長く義稙派として活動してきた重鎮。永正5年(1508)に義稙(当時は義尹)が大内義興に奉じられて堺を経由して上洛した際、尚順も一万と言われる大軍を率いて上洛しています。

塗輿に乗っているのは、畠山修理大夫、細川安房入道、大内左京大夫、細川右京大夫の四人。
畠山修理大夫は能登守護家の畠山義元。明応の政変でも義材派だった義元はこの頃は在京して幕政に参加しており、船岡山合戦にも養子の義総とともに参戦しています。義稙のお気に入りだったんでしょうか。
細川安房入道は野州家の当主・細川政春。細川高国、晴国兄弟の実父でもあります。こちらは高国との関係でしょう。Wikipedia情報によれば、備中守護を兼任していた讃州家の細川之持が死去した後、永正12年(1515)に備中守護を継いだようです。
後は両京兆の義興と高国ですね。

「和泉守護彌九郎」はWikipedia情報では細川尹賢の弟・高基だそうです。とすると高国の従弟ですね。義材派の流れを組む大名と、高国の一族で構成された政権という感じでしょうか。そして将軍は高国を排除したいと…大内義興が帰りたくなるのも分かるような気が(笑)