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ホリィ(新人)のことを語る

今日は細川高国と将軍足利義稙の対立について改めて『平島公方史料集』を読んでみました。

永正10年(1513)3月17日、将軍義稙(当時は義尹)が細川高国の専横を怒って甲賀へと出奔しました。
関白近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』には「言語道斷次第也、京都仰天、無是非者也」と記しています。

三月十八日
> 昨夜大樹御遁世云々、言語道斷次第也、京都仰天、無是非者也、對此間兩京兆御述懐云々

三月十九日
> 心中念誦如例、大樹之進退無心元由、以俊永、式部少輔江申遣處、使者ニ令對談、祝著之由令返事

「對此間兩京兆御述懐」は大内義興と細川高国から恨み言を聞かされたということでしょうか?
また、将軍の進退を心配した尚通は、家僕の北小路俊永を式部少輔(畠山順光)の元に遣わしたようです。畠山式部少輔は後の阿波への出奔でも義稙に同行しますが、この時もそうだったのでしょう。

将軍は同年5月3日に甲賀より帰京しますが、「従江州大樹御返事旨七ヶ條云々」とあり、高国らが帰還を働きかけた結果、将軍は何かしら条件を申し付けたのでしょうか。

四月三日
> 従江州大樹御返事旨七ヶ條云々、無指儀、種々令對談

四月廿八日
> 千秋刑部少輔為御迎参江州、為暇乞被来

五月一日
> 今日為御迎、細川右京大夫、畠山尾張入道、同修理大夫、大内左京大夫等、大津、坂本邊祇候云々、大樹亦今日甲賀御立云々

細川高国、畠山尚順、畠山義元、大内義興など主要メンバーが総出で迎えに行ったようです。
こうして永正10年3月から5月の出奔は収束します。(YOSHIKI史上何回目かは分かりませんが)
帰洛の様子は長くなるので後ほど。