これ、天野先生や出水康生さんの受け売りなんですけど、実際に近代デジタルライブラリーでいくつか戦前の信長の伝記類を確認すると、確かにそういう傾向が見られます。
たとえば畑米吉『美しくやさしい国史物語 : 建武中興より豊臣氏滅亡まで』(昭和4年)にはこういう風に書かれています。
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時の帝正親町天皇は信長の武功をお聞きになり、勅書を賜はつて天下平定をお命じになった、時は永禄五年、信長は得難きこの名誉に益々志を固くし、
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http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1717411/74
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先に天皇の勅命を蒙り、今又将軍家の者に依頼されたので、信長は自ら天下に望む立派な理由が出来たのを喜び、義昭を厚くもてなして只管入洛の準備を急いだ。
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http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1717411/76
足利の末世に衰微した皇室を信長が再興した、という流れに合わせた解釈がなされているのが分かります。
毛利氏なども「元就の勤王」とわざわざ条立てて正親町天皇の即位式への貢献が強調されています。事実ではありますが、当時畿内の実権を握っていた三好氏も献金して警護役を務めてますし、本願寺も献金した結果門跡寺院の地位を獲得してます。
維新後に行われた戦国大名への位階追贈で、元就には信長や秀吉と並ぶ正一位が贈られてますが、理由はお察しという感じ。
子孫が大名家として残らず顕彰されることもなかった三好氏は当然スルーですが、三好氏に従って天皇の即位式に列席した波多野秀治には従三位が贈られてます。鍋島氏に仕えたという一族の末裔が毛利家に働きかけたんでしょうか。八上城跡には当時の毛利家当主の揮毫で顕彰碑が建てられているそうです。