大内氏と阿波細川氏の連携の動きは両者が足利義晴-細川晴元方に属していた時期のことで、要するに細川晴国や国慶あるいは氏綱といった旧高国党や大友氏と連携して上洛戦を試みる尼子氏への対抗ではないかと考えてます。
実際に天文8年、細川持隆は尼子詮久に領国播磨を追われた赤松政村の支援のため備中へ出兵してますが、これは盟友赤松氏の要請に応えただけではなく、大内氏と尼子氏の争いでは一貫して大内に肩入れしていた晴元方の方針に沿うものでしょう。
気づいたことがもう一点、天文初期当時の備中は尼子氏の侵攻を受けて、尼子方となった庄氏が松山城に入ってましたが、これと争った三村氏は大内方に付きました。郡山合戦の敗北で尼子方が守りのターンに入ったことによるものでしょうか。
そして「備中兵乱記」(中国兵乱記?)からの情報ですが、いわゆる常山城の鶴姫の母に当たる女性が阿波三好氏出身とされていて、父の三村家親と鶴姫の年齢から推測すると、ちょうどこの頃に婚姻関係を結んだのではないかと思うのです。三好長慶もまだ細川晴元麾下で摂津の地盤を固めていた時期です。三村氏も三好氏と同じく小笠原氏の支流としていますので、結構説得力ある気がします。
川岡勉先生は以前から大内vs尼子の戦いを畿内における晴元vs高国と連動するものと看破されてましたが、色々と繋がってきた感じがしてます。
そして、細川持隆が足利義維(義冬)を庇護したのは、西国において義稙の影響力が残っていたためと見ることもできるかもしれません。