昨日は本屋でまた、浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』(思文閣出版)を拾い読みしました。
足利義稙が敵方だったはずの阿波勢と結びついた経緯と、大内氏との関係を確認するのが目的。
『平島公方史料集』には大内義隆が義稙の死後その肖像画を制作した話があったんですが、そこまでしたくらいなら、京都出奔後の義稙とすでに帰国していた大内氏と間にも親交が続いていたのかと思いきや、どうも在京中の義興は義稙に振り回されてた感じだったらしく、義興が父祖の代からの念願だった従三位への上階にも義稙は一人反対したそうです。
一方で高国に対しても不満を持つ義稙は早くから細川澄元との連携を計画していたようで、義興帰国後の永正17年(1520)2月には澄元から義稙側近の畠山式部少輔順光(義栄の側近を務めた式部少輔入道安枕斎の父でしょうか)に宛てて、義稙への敵意はないと赤松義村を通じて伝えていたことが書かれているそうです。
『戦国三好一族』ではその経緯について曖昧な書き方でしたが、澄元方が摂津で高国方を撃破した後、義稙が京都を落ち延びる高国への同行を拒否して在京し続けたのは、高国を幕政から排除したいという意志の表れだったわけです。三好之長が5月の等持寺合戦に敗死、すぐ澄元も病死したので結果的には義稙の孤立が確実となってしまったんですが。
この流れを見ると、浦上村宗が赤松義村から義晴を奪った上で殺害したのは、それ以前から義稙による高国離れの意志が先行していた結果と捉えることもできそうです。
大内氏の動きについては、義興が娘を細川持隆に嫁がせた(義隆が姉妹を嫁がせた?)経緯も確認したいですが…そろそろ中世武士選書『大内義興』も買っといた方がいいかな。