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ホリィ(新人)のことを語る

兵庫県史を手にしたのは内藤宗勝の戦死前後の動向を知りたかったためですが、その赤井文書に内藤貞虎からの興味深い書状がありました。
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其以後久不申通候、仍於京表、始三人衆被失利故、御屋形至播州御下向之条、我等も御供ニ罷下候、尤切々以書状可申承候処ニ、遠路ニ付、万事無音迄候、就其、為御使、同阿被差遣候、万御入魂肝要候、被対当御屋形様、数代御忠節、無并御家にて候条、此砌引立可被申事専一候、拙者も不断御近所ニ有之事候間、いか様之儀にても久可被仰越候、御文箱使可仕候、次時家、未申通候へ供、幸便候間、以書状申入候、不苦候者、被成御届候て可給候、尚期参拝之時候条、事々不能懇筆候、恐々謹言
三月廿三日 貞虎(花押)
荻悪右 御宿所
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内藤貞虎が丹波守護代の内藤一族だとして、荻野氏(赤井氏)と共に「御屋形様」と呼ぶべき人物といえば、丹波守護の細川京兆家しかないわけで…三人衆方が本圀寺の変で敗退した後、細川昭元は播州へ下向して再起を図っていたということでしょうか。
それって青山合戦にも繋がる動きじゃないかと気になって、"内藤貞虎"で検索してみたら、唯一出てきたのが池田勝正研究所の記事でした。
http://ike-katsu.blogspot.jp/2011_11_01_archive.html

しかし、信長の上洛戦に敗退し、将軍義栄を失い、本圀寺の変にも敗れた三人衆方が、なぜこうもしぶとく戦い、一度は離反した松永久秀や三好義継までもが復帰することになったのか。
この頃の反幕府方は反織田と反毛利で結びついた勢力という認識でしたが、義栄の死後も阿波公方は求心力を持ち続けていたのかもしれないと思い始めてます。