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ホリィ(新人)のことを語る

多分「足高」が瓦林出雲守かどうかはこの際あまり重要ではなくて、要は末吉文書を伝えた瓦林家の本拠地が摂津であったということです。
末吉文書には永正8年に上洛準備中の澄元から「摂津国々人中」に宛てた書状の中で、「猶本庄小次郎可申候」とあり、灘本庄の国人と思われる人物が摂津の澄元方との連絡に当っていたことも窺えますし、灘の瓦林一族も同様に阿波と摂津を繋ぐ存在だったのかもしれません。

少し時代は下るようですが、末吉文書には瓦林又四郎に宛てた「今度越水在城、尤神妙候、三好神五郎申合、弥馳走肝要候、猶古津・湯浅可申候也」という内容の晴元書状もあります。これが天文2年に瓦林衆が篠原衆が守る越水城を攻め取った後、三好伊賀守に奪われた件に関わるものであれば、やはりこの瓦林家の本拠地は和泉ではなく摂津と考えた方がしっくりきます。
この書状にも登場する古津元幸と湯浅国氏が再び側近取次として復活するのは、まさにこの天文3年頃だそうですし。

そうすると、永正8年の鷹尾城や永正16年の越水城の戦いは、どちらも摂津に地盤を持つ瓦林一族の分裂抗争でもあった訳で、そういう状況で正頼が開城し逃亡したというのであれば、高国に裏切りの疑いを掛けられて切腹させられたのも納得感があります。
(なお、この時は瓦林正頼だけでなく何人かの国人が犠牲になったような書き方でした。出典は「東寺過去帳」とのこと。)

ただ西宮市史の方でも「瓦林氏は戦国時代の末期まで堺付近で栄えていた」と言い切っちゃってるので、何か別の根拠があるのかもしれません。
僕は末吉文書の伝来の経緯を知らないし、市史の執筆者による補足もないので、判断しようがないですが…。

馬部先生の論文から瓦林氏関連に絞った感想はこんなところです。情報を整理してブログに書きたいけど、書く書く詐欺ばかりになってるので、順番に片付けるしかないかな…。