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ホリィ(新人)のことを語る

で、瓦林日向守ですが、まず実名「国時」と読まれていたのは誤りで、馬部先生は「在時」と読まれてます。
この辺は「湯浅弾正忠国氏」そして「細川高国在京奉行人連署奉書」からの連想でそう読まれてしまっていたように思います。
湯浅氏については僕も思い込みで野州家と縁の深い丹波湯浅氏の一族かな?と考えてスルーしてましたが、阿波の湯浅氏らしいです。天正年間に湯浅豊後守国貞という人物がいますし、国氏の「国」も高国とは無関係なのかもしれません。
そうなると、日向守が大物崩れで高国方として討死したという細川両家記の記述を信頼するかどうか、であればどの段階でどんな理由で晴元を離反したのかは別途考えなければいけませんが、そこは馬部先生は詳しくは触れておらず、後に日向守は高国方に離反したが後継者の帯刀左衛門尉は間もなく晴元方に復帰、三好政長と行動を共にしたと書かれてました。
(僕としては日向守に帰洛支援を求めていた義稙が死去したことと、高国による義晴擁立が離反の決め手だったのではと思ってしまいますが…)

そして、西宮市史では澄元方の瓦林家を「和泉瓦林氏」としていたのに対して、馬部先生の推測は摂津灘五郷の瓦林家ではないかとのこと。
瓦林政頼記に「ナタ五郷内澄元ヒイキノ者トモハ皆浪人ニテ、或阿州ニ下向シ、或淡州、播州ニ徘徊シケル」とあり、瓦林の名は出ていないものの灘五郷には澄元方がおり、永正8年の芦屋河原合戦の前哨戦で、灘五郷のうち長年不和だった本庄と西宮が手を組んで鷹尾城に攻め寄せた話が書かれており、そこに「足高」と呼ばれる人物が登場します。
この「足高」は鷹尾城主であった瓦林正頼の手勢により討ち取られたのですが、彼こそが末吉文書にも登場する瓦林出雲守で、その後継者の新五郎が日向守ではないかという話でした。
西宮市史でも新五郎が後の日向守ではないかとは推測されていましたが、瓦林氏の祖となった平左衛門入道が和泉国塩穴庄の地頭に任ぜられたためか、この末吉文書を伝えた瓦林家を「和泉瓦林」としていた訳です。そうではなく、灘の瓦林家であろうというのが馬部先生の説です。