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ホリィ(新人)のことを語る

ヒストリア 258号 (2016.10)馬部隆弘『細川晴元の取次と内衆の対立構造』より

まず、秋山家文書所収の史料、永正18年9月13日の瓦林日向守、湯浅弾正忠、篠原左京進から当所名主百姓中に宛てた連署状。時期的に澄元が死去し高国が京都を抑えていること、京兆家分国である讃岐秋山家に対する内容のため、香川県史では「細川高国在京奉行人連署奉書」とされてきました。
が、後に発見されて秋山家文書に追加された某年6月23日付の瓦林日向守、湯浅弾正忠、古津修理進から秋山幸久に宛てた連署状には、「隣国西方御知行分事、香川方江被仰出候処、悉止違乱去渡之由」とあり、讃岐の隣国である阿波から出されたものと考えられるとのこと。
↓この史料
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/262722/3

つまり、以前から澄元方として行動していた瓦林日向守はこの時期、本拠地を離れて阿波に下向し、幼少の細川六郎(晴元)の側に仕えていたのではないか、という話です。
古津修理進元幸は晴元側近の取次として、天文期にも各史料に表れる人物ですし、その本拠地古津は那賀川河口にある木材積出港で、後に足利義維の居住地となった場所でもあります。
そもそも彼らは高国の近習としては名前が表れていないそうで、澄元方から出されたものというのは間違いなさそうです。
先の史料の篠原「左京進」之良は讃州家より一字を授かっている上、伝承では篠原「右京進」長房の祖父・篠原宗半ともされてますし、高国方に離反したというのはちょっと考えにくいとは思ってましたが、やはり裏切った訳ではなかったと。