id:k-holy
ホリィ(新人)のことを語る

西宮市史で推測されていたように、澄元方であった瓦林新五郎が後の京兆家在京奉行人・瓦林日向守国時だとすると、やはり何かの時機で高国方へと鞍替えし偏諱を授かって在京して数年後、(軍記によると) 伊丹国扶、薬師寺国盛、波々伯部兵庫助らとともに「大物崩れ」で討死したということになりますね。義稙後期から義晴前期にかけて、京兆家領国では多くの城主クラスの武将が高国から偏諱を授かっていますが、薬師寺国盛などはこの討死の前年まで晴元方だった人物ですし、瓦林日向守も同様に考えて問題ないんじゃないかと思います。

遅くとも永正18年9月までに、つい前年まで澄元方であったと見られる日向守が奉行人として取り立てられ、瓦林正頼の後継者と見られる対馬守(幸綱?)も引き続き高国方で活動を続けている一方で、正頼本人が澄元方への内通を疑われて切腹させられているというのは、越水城開城の経緯で何か不審な噂でもあったんでしょうか。
三条西実隆もこの件には同情したのか、「十月十五日河原林対馬入道宗芸生涯の事きゝて」として、「洛中にことしハ種々の大はやし 河原はやしそ興ハさめけり」という狂歌を残しています。(再昌草)

なお、西宮市史では瓦林日向守の澄元方からの離反は和泉守護の細川元有が高国方となったためかとありますが、この頃の和泉上守護家は元有の子・元常で阿波に逼塞しており、後の将軍義晴前期に至って上守護家・下守護家共に高国方から抜擢されて継承したようなので、やはり和泉守護家の動向とは関係なく、永正17年の澄元方の敗退が転機だったのではと思います。