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ホリィ(新人)のことを語る

「末吉文書」には瓦林氏が澄元方と高国方に分裂した状況が窺える内容が多く含まれます。
まず永正8年の澄元方上洛戦の際と見られる、12月14日付で澄元から瓦林新五郎に宛てた感状には「於摂州家原合戦、打太刀被疵、同廿三日摂○蘆屋城江詰寄、責落外城時、抽粉骨之由」云々とあり、瓦林政頼が守っていた蘆屋城(鷹尾城)の攻略戦に新五郎が従軍していたことが分かります。
7月13日「摂州家原合戦」は今まで読んだ本には出ていない戦いですが、典厩家の細川政賢や和泉上守護の細川元常らが高国方の摂津国人衆を破った和泉深井郷での合戦と同日なので、摂津ではなく和泉の家原城での戦いでしょうか。
軍記によると瓦林正頼は鷹尾城が落ちると伊丹城へと逃れましたが、その伊丹城も赤松勢の攻囲を受けたため、丹波八上城の波多野氏の元へと逃れています。船岡山合戦の勝利により正頼は鷹尾城を回復しましたが、高国はこの反省から瓦林正頼に越水城を、能勢頼則に芥川城を築かせたわけです。
(なお「宗長手記」には後の大永3年正月に三条西実隆の主催で開かれた頼則の追善連歌会に瓦林対馬守が列席したことが記録されているそうで、同じ高国方の両氏には連歌を通じた付き合いがあったことが窺えます。)

次に永正16年の澄元方上洛戦の際と見られる、11月16日付で澄元から瓦林出雲守に宛てた軍勢催促状には「近日出張必定」として「芥河其外相談、於山崎口罷立」と山崎口への出陣を催促されており、瓦林正頼が守った越水城の攻囲には参加していたかどうか不明ですが、やはり澄元方として参戦していたことが窺えます。
更に後年、享禄3年から4年にかけての浦上村宗の上洛戦において、軍記では享禄3年9月に澄元方の瓦林左衛門尉が大物城で村宗の追撃を受けて討死している一方で、「鳥飼家文書」所収の享禄3年(推定)10月12日付の村宗から大原右京亮に宛てた書状では、よく河原林越前守から承るようにと伝えているそうです。「河原林」表記で「末吉文書」には見えない人物なので、こちらは摂津瓦林氏の一族でしょうか。対馬守、日向守、出雲守、三河守、越後守、そして越前守。また新しい受領名が…。