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ホリィ(新人)のことを語る

西宮市史で瓦林日向守を和泉瓦林氏と判断されているのは、おそらく関係文書が含まれる「末吉文書」の伝来過程に拠るものだと思います。Webで検索した程度ではどういう史料なのかよく分かりませんが、平野郷とか和泉方面の史料を多く含むようなので。
摂津の瓦林氏本家?の方は史料上では「河原林」と表記されており、その辺りも判断のポイントになるみたいです。(日向守は「瓦林」表記)
また、瓦林正頼や対馬守に関する記録は「末吉文書」に含まれていないらしく、公卿や連歌師の日記や歌集に散見されるほか、近世西宮の大庄屋に伝わる「岡本家文書」所収の史料など、軍記を除くと僅かな足跡を辿れるに過ぎないのが現状のようです。

正頼の子息には「瓦林正頼記」が伝える六郎四郎春綱の他、永正18年5月に西宮社連歌千句講中に契約状を出している六郎三郎幸綱という人物がいるそうです。(岡本家文書)
後者の史料は天野先生がミネルヴァの長慶本で紹介していた、長慶が越水城主となった天文9年の6月発給文書(松永久秀の初見史料)の前に当たるものと思われます。
そして、正頼自刃後の対馬守は元越水城主とされていますので、この六郎三郎幸綱に比定して差し支えないかと。
瓦林氏の祖・平左衛門元定の軍忠状には、討死した子息として為綱、景元の名が記されているので、あるいは「綱」は瓦林(河原林)氏の通字だったのかもしれません。