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ホリィ(新人)のことを語る

瓦林日向守が澄元方だったのかどうかですが、以前から気になっていたのが年次不詳3月25日付の将軍義稙御内書で、内容は帰洛への忠節を求めるものです。義稙と名乗っているからにはおそらく淡路に出奔した永正18年3月7日の直後で、元々澄元方であった日向守が前年の澄元方の敗退に伴って高国方に鞍替えし、淡路に出奔していた義稙からの要請を無視したとも考えられます。(であれば、同じく高国のもとで奉行人を務めた篠原左京進之良の動向とも重なります)

なお、瓦林正頼は澄元方撃退後の永正17年10月に高国から内通の疑いを受けて自刃させられていますが、大永3年正月にはその子息と見られる瓦林対馬守が三条西実隆主催の連歌会に列席しており(宗長手記)、それまでの間に父の冤罪は晴れて再び高国に用いられていたとのこと。
大永6年の丹波勢離反で八上城攻略に赴いた際に京都では対馬守が波多野稙通の首を得たと噂されたとのことですが(実隆公記)、その後、日向守がいわゆる大物崩れで高国と心中して討死した一方、対馬守は生き延びて旧高国党として活動していたようです。天文2年には瓦林衆が一向一揆と結んで越水城を篠原某(長政?)から奪回しますが、後に三好伊賀守により制圧されています。(三好伊賀守は幼少の長慶を後見し、天文の乱において晴元と本願寺の争いに乗じて勢力を延ばし、三好氏が摂津に飛躍する基盤を築いた人物)

また、天文10年9月には高国の妹婿という一庫城の塩川伯耆守が晴元方から攻撃を受けた際、瓦林対馬守は伊丹親興、三宅国村らと共に塩川方を支援して西富松城へ進み、越水城を攻撃し西宮辺を放火。この戦いでは晴元に背いた木沢長政が塩川氏に加勢したため、一庫城を攻めていた三好長慶(当時は範長)や三好政長は撤退せざるを得なくなりました。
同年10月に対馬守は河内に在陣し本願寺から陣中見舞を受けているそうですが(石山本願寺日記)、天文17年時点で牢人の身であったことから考えると、木沢方に与して再び没落したのでしょうか。その後、天文17年に三好政長・政生父子に加勢するために晴元の要請を受けて榎並城に入城するわけですが、落城後の動向は分かりません。