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ホリィ(新人)のことを語る

池田勝正研究所のこちらの記事を読んで、改めて瓦林氏の系譜について確認したくなり図書館で「西宮市史」と「瓦林正頼記」を読んできました。

荒木村重の重臣であった瓦林越後守は、池田育ち(生まれ)か!?
http://ike-katsu.blogspot.jp/2016/11/blog-post.html
こちらの記事に天正5年12月1日に織田信長が等持院に発給した朱印状が挙げられていますが
>等持院領摂津国瓦林・野間・友行名所々散在事、数通の判形・証文帯し之上者、直務相違有るべからず、然る者近年拘え置く之積もり分早速院納、次ぎに臨時課役等、有るべからず之状件の如し。

西宮市史によると応永19年(1412)5月、将軍義持が足利貞氏の菩提料所として瓦林一族の遺跡を等持院に寄進しており(等持院常住記録)、当時の瓦林氏は何らかの事情によりすでに所領を没収され逼塞していたそうです。
そして、根本的なことを見落としてたんですが、瓦林対馬守正頼は軍記では摂津国豊島郡出身とされているわけで、細川高国方として躍進した瓦林氏がそれまで豊島郡に逼塞していたと考えると、西市場城にいたという「瓦林越後守」の伝承も辻褄が合うように思います。

また、時代を遡って瓦林氏の祖となる平左衛門入道祖祐(元定)は建武4年12月には三河貴良庄(吉良?)に替えて和泉国塩穴庄の地頭に任ぜられており、そのために戦国時代の末まで堺付近で栄えていたとありました。
西宮市史ではこれを「和泉瓦林氏」と称していて、澄元方に付いた瓦林新五郎は後の日向守と推測されていました。
最近の史料によれば日向守は永正18年時点で国時と名乗って高国の在京奉行人を務めていたようなので(秋山家文書)、その辺の流れは検証が必要かもしれません。