『日本戦史 大阪役』は国立国会図書館デジタルコレクションにありました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771061/100
道明寺は河内志紀郡の一村にして大坂城の東南凡そ五里に在り其東に国分村あり豊臣の領邑の東南端に位置し東方大和に接し奈良より堺に通ずる街道と紀伊より山城に通ずる街道と此に交叉して十字形を為す(中略)
国分道明寺の間に石川あり片山村あり南に玉手村円明村あり片山以下三村皆突起の小山に倚る小山の片山村に接するを小松山と称す道明寺の西に藤井寺村同西南に誉田村あり片山村以下皆道明寺口の戦場なり(附図第三号)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771061/163
布陣図もありました。西から玉手村、片山村、国分村とあり、片山村の辺りに「小松山」とあります。この戦いで徳川方の主力として戦った伊達家では「勝田山」としているそうで、これは「片山」からの当て字のようです。
大和川と近鉄の大和川橋梁を挟んで、真ん中の小山がそうです。頂上付近には老人ホームと宗教団体の施設があって、残念ながら近寄れなさそうでした。
ここで大和川に合流しているのは原川。布陣図で小松山の右側に描かれている細い線はこの川かな?
なお後藤又兵衛の記念碑は玉手山公園にあるそうですが、建立されたのは昭和44年とのこと。(http://takenomiya.main.jp/minami/domyoji.html)
玉手村の記録によると、この戦いに際して豊臣方は家一軒を残して建物を焼き払ったそうです。いくら現代の大阪に豊臣贔屓が多かろうと、江戸時代に地元で顕彰なんて動きが起きるわけはないですね…。