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ホリィ(新人)のことを語る

『大友記』を判断する上で決定的なのが、奈多夫人の兄で高城合戦(いわゆる耳川合戦)の戦犯とされている田原紹忍のことで、宗麟にキリシタンへの改宗を勧めたなどと、全くのデタラメが書かれているそうです。
実際の紹忍は、田原の分家を継いでますがが元々は杵築の奈多八幡宮大宮司の一族であって、キリシタンに改宗しようとした養子を勘当するなど、豊後最大の反キリスト派としてフロイスからも敵視されている人物です。
とにかく悪い事は全てキリスト教のせい、という筋書きにするために、このような錯誤を平気で記すような姿勢で制作されたわけで、キリシタンとしての宗麟の事績については、史料としてアテにならないと考えるべきでしょうね。
ただ、戸次道雪が宗麟に対して、神仏を敬い天道に背くことのないよう諌めた書状は確かに残っていて、その中でも秋月氏が大友氏から離反するに当たって、大友領国のキリシタンが寺社を破壊し仏神を川に流して薪にするなどと触れ回っているとあり、合わせ技で批判材料にされるので、あの道雪が諌めるくらいだから余程だったんだろうと、軍記が喧伝する暴挙までもが事実と思い込んでしまうわけです。少なくとも僕はそうでした。

宗麟が「先進的なキリシタン大名」としてのイメージを損なうことにもなるかもしれませんが、イエズス会『日本通信』では、府内で25年以上布教したにもかかわらず、信徒となったのは2000人程度で、しかもほとんどが貧者か病人が救済のために来たもので、貧乏人の宗教だと思われていると嘆いているそうです。
宗麟個人の信仰はともかく、領国豊後におけるキリスト教の社会的な受容度はそんなものだったと。だからこそ宗麟は隠居するまではキリシタンとして活動できなかったのでしょう。
あと『日本通信』はともかくフロイスの『日本史』は、こと自分たちの教義や利害に関わる事柄については、極めて悪意と偏見に満ちていて、本国に布教の「成果」を過大に報告していることはよく知られる通りですし、逆に神仏、特に旧仏教を信奉する側でもキリシタンからの被害を過剰に喧伝している例もあるかもしれません。後世に宗教の実態を知ることの難しさも感じました。