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ホリィ(新人)のことを語る

この辺りは秀吉の時代の町割りの影響をあまり受けていないと言われますが、妙顕寺や本法寺など数多く見られる日蓮宗寺院は秀吉によって集められたもので、そのために百々橋があった京兆家メインストリートともいうべき通りは「寺之内通」と呼ばれています。

ご覧のとおりで、今は結構狭い道路になってます。

寺之内通に面した妙顕寺は法華宗の京都進出のさきがけとなった寺院で、元は四条大宮にあったため「四条門流」と呼ばれていました。現存する妙覚寺、本能寺、立本寺、妙蓮寺、本隆寺はこの妙顕寺からの分派です。
法華宗は南北朝から戦国期には延暦寺からたびたび弾圧を受け、妙顕寺も一時は本妙寺と名前を変えつつ四条大宮、三条坊門堀川、五条大宮、二条西洞院と寺地を転々としています。
天文法華の乱では一向一揆の鎮圧に利用された挙句に幕府と延暦寺によって焼き討ちされ、寺僧たちの多くは泉州堺の末寺に逃れましたが、その後三好氏との良好な関係を背景に復興を遂げています。
しかし、天正12年には二条西洞院も秀吉の宿所とするために破壊され、堀を持ち天守を備えた城郭に姿を変えますが(二条の妙顕寺城と呼ばれている城跡がそれです)、その替地として用意されたのが現在地というわけです。
ここに妙顕寺が再建された頃にはすでに将軍家、京兆家とも落魄してましたし、信長の上京焼き討ちもありましたので、この辺には空き地が多かったのかもしれません。先述の内藤町という地名も、その後特に何も建てられなかったために残ったんでしょう。


尼門跡寺院の宝鏡寺を基準に当時の再現地図と見比べてみると、上御霊前通と寺之内通の間、妙顕寺と塔頭寺院、裏千家今日庵、表千家不審庵がそっくり柳原御所の跡地と重なっていることが分かります。