(順番間違ったので再掲)
内藤町の地名の由来は、京兆家内衆で丹波守護代を務めた内藤備前守の邸宅があったからです。
細川一門の領国はこの頃には丹波、摂津、和泉、備中、淡路、阿波、讃岐、土佐の八ヶ国に及びましたが、その守護代は守護である京兆家やその分家に仕えて、当主と共に在京していました。
彼らの多くは京兆家の分裂抗争を通じて没落あるいは下国、もしくは在京と在国に分かれた家のうち後者だけが残る結果となりましたが、元々丹波の国衆だった内藤氏は地盤の強さや京都との距離の近さからか、比較的長く在京したようです。
足利義晴を奉じた細川高国が京兆家邸宅の北側に柳原御所を築いた際、内衆の邸宅跡が利用されたそうですが、在京して高国に仕えた内藤貞正・国貞父子は内衆の筆頭的地位にありました。その後の三好氏の時代には丹波に在国していたと思うのですが、その間も屋敷を保持したために地名が残ったのでしょうか。
旧新町通沿い、内藤町の少し北にタバコ屋(?)の内藤さんを発見。もしかして後裔の方でしょうか?
祇園にも、内藤備前守の子孫という履物屋の「ない藤」さんがあるようです。
http://gion-naitou.com/story/index.html
「文正元年(1466年)に応仁の戦乱で消失しました」とありますが、内藤備前守家はその後も在京しています。
(応仁の乱で町が焼かれてから、信長が上洛するまで京都はボロボロだったと思い込んでる人は多そうですが、そんなことはないです)
内藤家の後裔が今も京都にあるのは、大堰川(桂川、保津川)を通じた丹波との経済的な結びつきが関係しているのかも知れません。
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