足利義材・義尹・義稙への興味を持つきっかけをいただいた『戦国黎明記』の管理人さんがブログの義稙の記事にコメントしてくれてて、びっくりしたけど嬉しいです。
kurokanprojectさんやt-katsuさんもそうですが、リスペクトしているサイトの方が、はてなアカウント作って絡んでくださるのは本当にありがたいことです。
ブログに関しては、コメント>>>超えられない壁>>>はてなスター>アクセス数 というのを実感します。
(その分お返事の難しさもあるのですが…)
Twitterでフォローしている方が真田丸関連でわーっとなってる中、ぽつっと永正頃の話題をつぶやいてくださるのも嬉しい。もちろん、別に僕を喜ばせようとしてつぶやくわけじゃないでしょうけど。
馬部隆弘氏の論文「細川澄元陣営の再編と上洛戦」が、細川持隆が晴元の実弟だとか、永正8年の船岡山合戦に到る澄元方の上洛戦の際に三好之長は細川高国を支持していたとか、いろいろ興味深い内容らしい。
船岡山合戦は典厩家の政賢が主導したものと考えると、澄元も之長も参戦していない理由が納得できるし、高国離反の直前に細川成之が細川一族の結束を願って高国に送った書状を政賢にも出しているのは、両者の不仲のためだとすると分かりやすい。
明応の政変以前の讃州家は義尹に近い立場だったし、澄元は義尹上洛前にも将軍義澄に義尹との和解を進言してたけど、政賢は明応8年(だったかな?)に政元が上洛の機会を窺う義尹との和平に傾いた時これに反対していたはず。その辺の姿勢の違いにも現れていたかも?