義興の活動は大永年間にも見られますが、永正17年に堺で死去したというこの説ではすでに義隆に代替わりしていて、義興の死は伏せられていたということになります。
さすがに7,8年も秘匿するのは無理があるとは思いますが、永正17年の上洛戦の真偽は確認したいですね。
義興の帰国後も大内氏が義稙との繋がりを断たず、澄元や赤松義村と結んだ義稙による反高国の動きに同調していたのであれば、細川持隆が大内義興の娘を正室に迎えた件、遣明船の利権を巡って寧波の乱で武力衝突やらかした件、義稙の没後に義隆がその肖像画を描かせた件も納得しやすいんですが。
ちなみに義稙は大永元年3月に京都出奔後、淡路で畠山卜山と共に再起を図って失敗し、翌年に卜山が死去、義稙はその翌年に後を追うように死去しました。寧波の乱が起きたのはその同じ年になります。