義稙本、明応の政変あたりで中断してたんですが一気読みしました。この3冊を読み比べると面白そうな感じ。
浜口先生が在京四大名による猿楽興行の共催を高国が序列形成を図ったものとしているのに対して、山田先生は将軍が1人を突出させないようバランスを図ったものと、真逆の評価をしてましたね。
藤井先生は義稙に心底呆れてもう面倒見切れない、みたいな感じで帰国したと捉えていて、二度目の出奔で義興を頼らなかったのも喧嘩別れに近かったためと見ているようでしたが、山田先生は尼子の相手してて余裕ない上に京都から遠いからって理由を挙げてます。
畠山順光と父の経歴が驚きでした。『応仁記』で義視の伊勢下向に従った中に既に畠山式部少輔の名が挙がっているので、てっきり畠山庶流の奉公衆か何かと思ってたんですが、同朋衆として義稙個人に仕えた無名の親子だったみたい。
義稙が義維を養子にしたとの話が出ていなかったんですが、そもそもこの件当時の史料にはないという事でしょうか。だとすると、まさに上洛の執念を義稙と共有し続けた順光が子の維光にもそれを受け継いで、阿波公方を誕生させたと捉えて良いのかも?
ホリィ(新人)のことを語る