土日は尼崎の図書館に向かうつもりでしたが、たまたま通りかかった西宮市立中央図書館に寄ってみたら、群書類従、続群書類従、続々群書類従、群書解題、国史大系が揃ってて、しかも閲覧室は届け出不要で利用できたので、そのまま居座ってしまったという…せっかくなので越水城跡のことも調べました。
明治29年に城跡(字桜ヶ谷)に大社尋常小学校が設立、傾斜地が多く狭小となったため大正7年に現在地に移転、校地跡を買い取った中弥兵衛氏が大正9年頃に自宅を新築した際に「越水城趾」の碑を建てたものの、その後土地の持ち主が変わり、住宅開発の波で取り除けられていたそうです。今の大社小学校に再建されたのがその石碑ということ。揮毫は九鬼隆一氏。
昭和11年の『大社村誌』には当時の写真が掲載されていたんですが、小高い丘の上に松林があって、かろうじて城跡の象徴的な役目を果たしていたようでした。
他にも「摂津大社今様音頭」というのが載ってて、その一節より
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大社名勝は越水城趾ドッコイナ
花のもののふ伊豆守ホイ
今も変わらぬ小清水井戸に
名さへゆかしき ヨホホイ櫻谷
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「伊豆守」というのは、永正17年の越水城開城の際、一人城に残って切腹したという若槻伊豆守長澄なる老将で、『重編応仁記』に辞世の歌として「花咲かぬ今の憂き身も古へも 身のなる果は変はらざりけり」が伝わっています。
歌の作者は地元越水在住の佐久羊村氏で、昭和初期の民謡ブームに乗って大社村のPRのために作られたそうです。先の大戦さえなければ、越水城趾も史跡としてもうちょっと顧みられていたかもなぁ、と思わざるを得ませんでした…。
ちなみに西宮市も沿岸市街地の例に漏れず、昭和20年に繰り返し空襲を受けていて、8月6日未明の爆撃で西宮神社の本殿が焼失しています。図書館に併設されている資料館には空襲後の門前の写真も展示されていました。
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