船上東公園の隅にあった「改耕記念碑」の碑文を写真に撮ってたので、読んでみました。
船上耕地整理之記
船上は林崎村の東部明石市に隣接し、地形南北に狭長地盤概ね平坦なり
古来住民多くは稼■に勤め、水稲を以て主作物とせり
其灌漑用水は比較的潤沢なるも、低窪の地にありては排水良好ならず
道水路は紆余亦曲折して頗る不備、区割亦狭小不正にして
(以下略)
以下概略をまとめると、耕地整理を断行すべく大正14年に組合が設立され、その後昭和3年12月まで工事が続けられた結果、「区割亦井然として耕種灌排の便、土地利用の実、完きを得たり」となったそうで、「曠古の大典を擧行せらるるの時」(昭和3年11月の即位の大礼のことでしょう)昭和4年10月に記念事業としてこれを伝える、という内容です。
「低窪の地にありては排水良好ならず」というのは、池田由之の船上城主時代、明石川沿いに「出羽殿堤」が築かれた理由にも繋がるものでしょう。
現在も本丸跡地の周囲に「古城川」と呼ばれる堀のような水路が残ってますが、上記耕地整理の際に道水路にも手が加えられたそうなので、これが当時の様子をどの程度伝えているのかは分かりません。
古城川下流にある密蔵院というお寺の裏には江戸時代中頃まで船繋場があったと伝わり、出羽殿堤より内側に港が構えられていたと推定されています。その形跡が今も残っていれば観光資源になったと思うのですが…先の耕地整理の話のように、住民にとってはその時々の課題があり結果として現状があるわけで、本丸跡が維持されているだけでも幸いでしょうか。
密蔵院の南西方面には土塁跡もあるそうなので、次回訪問時にはこれらも確認しようと思います。
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