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ホリィ(新人)のことを語る

藤田教授が唱えた「足利義昭黒幕説」がどんなものかは知りませんし、別に藤田教授の肩を持つわけではありませんが、今反論するなら最新の見解に対する反証がなければ意味がないでしょうと。
ちょっと長くなりますが、プレスリリース発表資料を改めて読み直しました。

解読文
>如仰未申通候処ニ、
>上意馳走被申付而
>示給快然候、然而
>御入洛事、即御請申上候、
>被得其意、御馳走肝要候事、

読み下し文
>仰せの如く、いまだ申し通ぜず候ところに、
>上意馳走申し付けられて
>示し給い、快然に候、然れども
>御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、
>その意を得られ、御馳走肝要に候事、

訳文
>仰せのように、いままで音信がありませんでしたが
>上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。
>しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては、既にご承諾しています。
>そのようにご理解されて、(将軍に)ご奔走されることが肝要です。

「重治が義昭の指示によって行動していること」
「光秀も既に上洛戦への協力を約束していたこと」

上記の文章に誤りがないのであれば、少なくともこの書状が出された6月12日以前に、この2点が判明しているとの解釈に問題はないように思えます。
そして、光秀が変を起こしたのは6月2日未明なので、もし光秀が変後に初めて義昭からの帰洛支援要請を受けたというのであれば、義昭はその間に信長の死の情報を精査した上で御内書を出し、使者がそれを持って「中国大返し」による街道の混乱の中で秀吉軍を追い抜いて光秀と接触していなければならず、極めて困難だと。
つまり、光秀は変を起こす前から義昭に通じていたと考えるのが自然、とのこと。

また、6月13日付の乃美兵部宛御内書によって、信長の死を確認した義昭は毛利家に帰洛支援を命じていること。
6月17日付の香宗我部親泰宛御内書によって、同じく義昭は長宗我部家に対して毛利家と協力して帰洛支援するよう命じていること。

> 最終的に信長から離反した光秀は、毛利氏や長宗我部氏に推戴された将軍足利義昭の帰洛による幕府再興をめざしたのである。

そのために変を起こしたという、この結論にも問題はないように思えます。
幕府再興が光秀の目的だったのか、あるいは義昭が首謀者なのか、また毛利家や長宗我部家の思惑などはさておき、光秀は毛利家と長宗我部家の支援による義昭の帰洛計画を承諾した上で信長に謀反したと捉えるのが妥当で、少なくとも野心や怨恨による突発的な「単独謀反説」は明確に否定されたのではないかと。
あと、以前からこれらの書状の年次比定についての指摘もあったようですが、プレスリリース発表資料では全て反論されています。(僕の知識では正否判断できませんが…)

ちなみにプレスリリースには「本史料の紹介は、10月刊行予定の『織豊期研究』19号に掲載予定」とありますので、専門家の正式な(?)反論はその後になるんでしょうか。