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ホリィ(新人)のことを語る

ちょっと前に知って気になってたこのニュース。
桶狭間合戦で「信長・六角」同盟が存在か : 中部発 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/chubu/feature/CO022951/20170731-OYTAT50062.html

桶狭間合戦の際に信長が今川義元の首実検を行い、その経緯で義元と家臣達の菩提を弔う長福寺に伝わる「桶狭間合戦討死者書上」という近世の文書が元ネタとのことで。
記事には永禄9年のいわゆる「信長の幻の上洛戦」に関する書状と絡めて「信長と六角氏は共に義昭を助ける同盟者であった」云々とありますが、桶狭間合戦が起きた永禄3年と、将軍義輝が殺害された後の永禄9年では状況が全く変わっているので、まずは何をきっかけに両者が提携に至ったのかを考えた方がいいと思うんですね。

そもそも、信長は永禄9年時点ですら美濃攻略の途中で、永禄3年時点ではようやく尾張一国を統一した段階です。一方の六角家は細川晴元派と細川氏綱派の抗争で将軍が京都を追われていたことが背景にあるんですが、将軍義晴後期(細川高国の死後)から義輝期には幕府の中枢を担う有力守護で、六角義賢の父・定頼は将軍義輝の元服で加冠役を務めたほどの関係でした。六角義賢が将軍家通字の「義」を賜ったのも定頼の働きによるものでしょう。桶狭間合戦の時点ではまだ野良田合戦で浅井長政(賢政)に敗れる前なので、勢力のピークと言って良い状況です。

で、当時の幕府陣営がどうだったのかというと、永禄元年11月に将軍義輝が六角義賢の仲介で三好家と和睦を果たして帰洛したんですが、その翌年2月には信長も上洛して将軍に謁見してるんですね。これは信長が尾張をほぼ統一した直後のことで、尾張一国の支配を正式に幕府から認めてもらうためだったと言われてます。
なので、この時に将軍義輝を介して信長も弱小ながら幕府陣営の一員として認められたこともありそうですし、何よりそれ以上に今川の存在が幕府から危険視されていたのかもしれません。

美濃の斎藤義龍(一色治部大輔)は永禄2年に相伴衆に任じられていて、幕府にも従っていましたが、信長とはすでに敵対関係にあったので、将軍の意向であっても織田救援のために動くことは難しいでしょう。そんなわけで、近江から六角が駆けつけたというのが桶狭間合戦における「織田・六角同盟」だったのではと想像します。

などと考えて書いてるうちに、肝胆ブログさんが似たような視点での記事を書かれていた、という話でした。
http://trillion-3934p.hatenablog.com/entry/2017/08/04/000253

「1560年当時の六角義賢様はグレートでマーベラスな守護様だった」
「桶狭間合戦に六角家の援軍があったとしたら織田家にとっては勇気100倍、今川家にとってはマジかようぜー」

僕も、この時代の幕府の再評価が進んで一般レベルまで浸透したあかつきには、六角家も正当に評価される時がくると信じています。