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ホリィ(新人)のことを語る

現在の妄想の要点は、義稙最後の出奔と赤松義村の動向の関係です。
以前のブログ記事で推測したように、義稙がゆくゆくは亀王丸を後継者にと考えていたのだとすると、永正15年から16年にかけて、赤松義村に対して澄元に味方しないよう繰り返し御内書で命じたことにも納得がいきます。あるいは、義稙の後継者問題と、それを巡る赤松義村の処遇が高国との対立要因であった可能性もあると考えます。
赤松義村は永正16年の澄元方上洛戦の際に浦上方に敗れて隠居へと追い込まれましたが、永正17年末には亀王丸を連れて置塩城を脱出して再び軍を起こし、味方の謀反でいったん撤退したものの、永正18年2月に隠居号「性因」から「兵部少輔」へと名乗りを戻した上で再び村宗に戦いを挑んでいます。
義稙が畠山式部少輔を連れて京都を出奔したのはその翌月で、直後から高国の討伐を名目として旧澄元党を中心に動員を掛けており、明確な証拠はありませんが、両者が提携していた可能性は高いと考えています。おそらくここでも前年の澄元受け入れ時の交渉と同様に、式部少輔の働きがあったものと推測しますが…。
そして、4月に義村は村宗と和睦して7月には亀王丸が播磨から上洛するわけですが、その数日後に亀王丸が赤松家で養育された頃から付き従っていた側近たち数名が相国寺で切腹していて、二水記には「造意の事、露顕に依り」とあるそうです。
亀王丸の上洛を巡って何らかの策謀が明らかとなったために切腹させられたのだとすると、これに義稙と義村が絡んでいて、高国は村宗と手を結んだ上でその策謀を逆手に取る形で亀王丸の擁立に踏み切ったのでは…というのが、今の妄想。