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ホリィ(新人)のことを語る

ただ、5月12日条によると「実説」として、降伏した之長が百萬返の講堂(知恩寺)で自刃した際にこれを介錯した甥の振る舞いが記されており、「ヲイカイシヤクニ寄テ頸ヲ打落テ、其後彼ヲイタチナガラ高聲ニ我コソ三好ガ内者ヨ、自害コレミヨトテ、立ナガラ腹ヲ切ルト云々、大強ノ者ナリト云々」と、之長の首を落とした後大音声で呼ばわり立ったまま切腹するという勇ましい最期を見せ、語り草となったようです。
Wikipediaによると、この之長の甥は三好越後守(長尚)の子で新五郎という名だそうで、後の三好神五郎政長の兄に当たることになりますが、政長の活動時期から考えるとかなり年が離れていたはず。後に神五郎は父とともに阿波勢の上洛を先遣して畿内を転戦しますが、兄の無念を晴らしたいという思いもあったのではないでしょうか。
また「次六郎殿ハ、去二月十六日海ヘ沈給フ、主従共以終畢、サンシウハ、アハノカミ殿ヘ、高国ヨリマイラセラレ了、次三好跡ヲバ、今度ウラガヘリノ面々ニ被下ト云々」とあり、やはり澄元はすでに溺死していたと信じられており、主従ともに滅びたこと、三好の領地(畿内の領地でしょうか?)は寝返った者たちに下されたことなどが記されています。
「サンシウハ、アハノカミ殿ヘ、高国ヨリマイラセラレ了」の解釈については、讃州家は澄元の兄之持かその子の持隆が継いでいますが、京都の下屋形は主人が不在であったために、高国が安房守家から継がせたということでしょうか。Wikipediaによると高国の父・安房入道政春はすでに死去しているので、この安房守は高国の弟とされる八郎(晴国)でしょうか。