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ホリィ(新人)のことを語る

なお、5月6日条には、三好之長が高国方の大軍に包囲された際、「三好陣公方様御近所ニ野陣張有之處、無戦破之山階寺ヘ落行云々」とあり、三好は将軍の身柄を盾に取ろうとしたか三条御所近くに陣を張ったものの、戦わずして山科へ落ちた後、「細川高国七万騎余有之云々、吉田ニ高国ハ被取陣、諸勢ハ京中ヘ入、爰三好ガシウト界敷ハ打死ニト云々、其外高国ヘ裏帰面々十人余有之云々」とのことで、多勢に無勢の状況で名のある武士で之長を見限って高国に付いた者が十人以上いたことが報じられるとともに、「六郎殿ハ未被見之、去二月十六日ニ海沈給事一定々々」と澄元が尼崎で溺死したとの噂が信じられていたことが窺えます。
浜口先生の京兆家本によると「二水記」5月1日条に「三好筑前守為右京大夫澄元御礼之使参室町殿」とあるそうで、澄元に京兆家の家督を認められたことの御礼として、名代の三好之長が三条御所の義稙の元へと出仕したのが5月1日。
山田先生の義稙本によると、そのわずか2日後の5月3日には、4、5万の大軍となった高国勢が京都近くまで押し寄せ、篝火が晴天の星のごとく光を放って京都を恐怖に陥れたとのこと。また、入洛時に2万と伝えられた三好勢は4、5千まで減っていたと伝えられているそうです。追い詰められた之長は義稙の妹が入寺していた曇華院に匿われたものの、高国からの呼び掛けに応じて出頭したようです。(続南行雑録に五月朔日のこととして「三好ハ細川高国ノ屋形ニ在之云々」とあり、その際の状況と考えるとしても日付が合わないのはよく分かりませんが…)
おそらく「細川高国七万騎余有之」といった状況に加えて、澄元死去の噂が三好麾下の諸将の離反に拍車をかけ、永正8年の船岡山合戦以上の呆気ない最期を招いたのでしょう。彼らの多くは元々之長の部下ではなく、主君たる澄元がすでに死去した状況では三好に従う義理などないという道理です。以前に細川成之が高国への書状で反省したように、家中には政元の頃から之長の増長を快く思わない者が多かったようですし。