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ホリィ(新人)のことを語る

先日も「続南行雑録」の永正17年5月以降の続きを書き写してました。
三好之長の5月5日の敗北に続いて6日には畠山総州が河内から没落し9日には越智氏の調法により吉野まで逃れ、10日には入れ替わるように畠山尾州御曹司(稙長)と遊佐氏が河内へ戻る。この間、大和では筒井勢が古市の「山ノ城」に攻め寄せたところ古市内衆が裏切ったため落城。
京都では高国が元の屋形へ帰着するとともに摂津からは澄元与党は悉く退散して高国方が復帰し、畿内の治安が回復して寺社本所領も相違ないことが報じられ、これを受けて大和・河内においても遊佐氏の仲介により?筒井と越智が和睦を進められたようです。
注目は5月8日の「公方様并式部少輔無殊儀者也」「勢州ヨリ公方様ヘ不可有御仰天旨被申云々」です。
おそらく将軍義稙は噂された通り澄元の代理として上洛した三好之長を受け入れたために畠山式部少輔ともども京都を動かず無事に済んだものの、高国方の逆転勝利に決着したため、伊勢守貞陸?貞忠?は決して動揺しないよう将軍に言い含めたということでしょう。
山田先生の義稙本によると、伊勢貞陸は高国とも親しかったらしく、義尹の上洛に伴って高国が澄元を見限った時にはこれを将軍に執り成したと考えられるそうで、高国には貸しがあったのでしょうか。今度も将軍が高国を受け入れる限りは何ら危害を被ることはないと判断したのではないかと思います。(結果的には1年も経たず義稙は自ら出奔し、高国打倒を称して軍を集めることになるわけですが…。)