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ホリィ(新人)のことを語る

一向に進まないブログ記事の続きを進めるために、手元にある本と図書館で読める史料から、永正16年から17年の澄元方上洛戦の背景を考えてみました。
「細川両家記」が諸勢力の動向を割と正確に伝えていることも改めて実感できましたが、あくまで数十年を経た後に編纂された軍記ですので、諸勢力の思惑についてはどうしても著者の立場による結果からの推測が入ってしまうと思うわけで。
そういう意味で、高国の近江落ちの際に「今度公方様澄元一味にて京に御座候也」としている部分を疑ってみることから始めた次第です。
両佐々木氏に支援を求める御内書や、畠山尾州家を激励する御内書については、おそらく、過去には京兆専制=義稙は高国の傀儡という見方が主流であったために、高国の意志で送られたものと解釈されてきたのでしょうか。
研究の進展によって今では義稙の主体性が認められているわけですから、先入観を排して義稙と高国の関係の変化を捉え直す必要があると思いました。(専門家の間ではすでに進んでいるのかもしれませんが…)

高国の都落ちが両佐々木氏への支援依頼という当初からの計画に沿った行動であり、義稙と決裂したわけではなかったと考えると、高国が三好之長を破って再び京都を回復した後、何事もなかったかのように義稙を将軍として遇したのも、当面の行動としては自然なものに感じます。
なお「続南行雑録」には5月1日の記録として「去十六日ニ細川高国江州守山ノ八日市迄出頭」とあり、4月16日には滞在先の園城寺を出て近江八日市まで赴き、六角勢と合流したものと思われます。おそらくその後、丹波勢とも示し合わせた上で反撃に出たのでしょう。