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ホリィ(新人)のことを語る

永正17年3月3日付、赤松兵部少輔に宛てた御内書案
> 就今度京都無事之儀。太刀一腰。西長。馬一疋鹿毛。到来。悦喜候也。
赤松義村から「京都無事」を祝って太刀や馬が贈られてきたようです。前年から澄元を仲介していた義村に対する返礼は、すなわち将軍が澄元を受け入れたことの表明にも思えますが、この時点ではまだ畠山稙長が高屋城で澄元方への抗戦を継続しており、数日前に稙長を激励する御内書を送ったばかりです。
義稙自身がどのような決着を望んでいたのかは分かりませんが、やむなく澄元を受け入れるにしても、必ずしも旗幟を鮮明にしなくとも良いという将軍の立場からすると、それを表明する時機は3月16日の高屋城落城後と考えるのが妥当ではないでしょうか。
そう考えると、三好之長が山崎に一ヶ月留まり続けた後、3月27日にようやく上洛したというのも自然な流れだと感じます。今谷先生は之長の立場から「澄元の体調が思わしくなかった」「慎重に情勢の推移を見極める時間」といった理由を挙げられていますが、それは将軍にとっても同様のはずです。
山田先生の義稙本によると、この頃には京都でも澄元が上洛して来ないことへの不審の声が上がっていたようです。(「二水記」3月15日条)
澄元が2月16日の夜戦で溺死したという噂は興福寺の春日若宮社まで伝わっていたので、将軍がそれを耳にしなかったとは思えず、このような状況では尚更、決断を先延ばしにしてもおかしくはありません。澄元はこの約3ヶ月後の6月10日に32歳の若さで死去するので、噂は半ば事実だったわけですし。

従来、大内義興の帰国によって高国が将軍義稙の意志を蔑ろにするようになり、そのために最終的に出奔に至ったと考えられてきたわけですが、当時の史料からは両者の対立要因が明瞭ではなく、納得がいきませんでした。
ですが、永正16年から17年の澄元方上洛戦の動きを史料から追ってみると、この時の将軍の振る舞いが高国の疑心を生み、次第に意思疎通を欠くようになったのではと考えるようになりました。(結果的には一周回って、今谷先生「戦国 三好一族」の「一時的にせよ澄元を家督と認めたことで、間の悪いことになった」という表現に近い印象です)
京都を回復して5ヶ月も過ぎた永正17年10月に、高国が河原林正頼を澄元方への内通の疑いで切腹させたことも、将軍に対する無言の抗議あるいは牽制と捉えると納得できます。