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ホリィ(新人)のことを語る

「細川両家記」では「然に同二月廿七日に難波より三好筑前守之長。京へ上り給ひ。都にて威勢申計なし。」と、2月27日には京都に入っていたかのように書かれていますが、今谷先生の「戦国 三好一族」には三好之長は2月20日に大山崎に入って1ヶ月滞在したとあります。山田先生の義稙本でも3月27日に之長率いる2万の大軍が入京したとあり、「二水記」3月27日条にそれを見た感想が記されているようなので、三好之長の入洛は3月27日で間違いないと思います。
なお、入洛が遅れた理由として今谷先生は「澄元の体調が思わしくなかった」「慎重に情勢の推移を見極める時間」「京都近郊の地侍・土豪の宣撫」を挙げています。

さて、前述の「続南行雑録」によると高屋城の落城は3月16日だったわけですが、実はそれ以前の2月29日付で将軍義稙から畠山次郎(稙長)に宛てた御内書案が残っています。
> 高屋城事。于今堅固之由。尤神妙候。彌被官人等励戦功之様。可被加懇詞候也。
畠山稙長に対しては高屋城を何とか保っていたことを賞賛し、被官人には戦功を励まして「懇詞」を加えられるよう?伝えています。
稙長は澄元に与する総州家とその与党・越智氏によって攻められていたので、もしこの時点ですでに澄元を受け入れていたのであれば、この将軍の対応はあまりにも場当たり的で不審です。
しかし、義稙の立場で考えると、そもそも越水城が攻められていた最中の12月28日に六角定頼に対して、また越水城開城後の2月6日にも京極高清に対して、義稙自身が支援を要請していたわけで、近江へ落ちるよう勧めた高国に従わなかった(「誘引申室町殿可落行云々、雖然室町殿無御招引」)からといって、この時点で高国を見捨てて澄元を受け入れる決断を下したとは言い切れません。
高屋城に澄元方を足止めしている畠山稙長のためにも、自らが築いた三条御所に将軍として留まり続けることこそが重要だと考えた義稙が、高国には六角氏や京極氏の支援を得るべく近江に向かわせる一方で、自身はそのための時間稼ぎをしていた可能性もあると思うのです。